ボーカル上達Ⅲ〜ええかっこする前に中味ですよねヤッパリ〜
昨日は京都校のMIX LIVEでした。祇園のSilver Wingsさんの平井さん・清水さんに
毎度のご尽力をいただいて大盛況の中、12組のアーティストがぶつかり合い
眩しいスパークを見せてくれました。そんな飛沫や息吹きを間近に、僕は約半世紀生きてきて
初の虫歯のUZUKIとステージの感動のUZUKIの両方で泣きそうになっていました。
久々の雪景色の京の街並みにワクワクしている京都校チーフの吉田です。
みなさんガンバって生きておられますか。
最近、僕は「二十歳の原点」高野悦子著を読みました。
戦後の大学紛争の頃に青春を生き抜いた高野悦子さんの日記が小説に
なった作品でした。彼女は二十歳で亡くなってしまうのですが、中学時代から
赤裸々な自分に向き合って綴り続けたノートの記述だけあって、本当に生々しく
嘘偽りのない心の叫びが痛々しく届いてきました。
当時の社会世相・行き場を失った若者たちの価値観・旧価値支配からの脱却と苦悩・
真実を探した人間関係の欺瞞や恋愛での葛藤・生きる実感希求への逡巡など
うら若きキュートで利発な少女が、その見た目とは裏腹にかなり世のドロドロの部分と
真っ向対峙して消え入りそうになってゆく経緯に究極のリアリティーと生の痛みがありました。
群馬の女子校から京都の立命館大学に進学した彼女が、大学紛争が爆発している京都市街地を舞台に
生き惑う姿が、時代は違えど僕にとっても身近でよく知った地名ゆえにより鮮明に迫ってきました。
不器用なまでに全てを正面で受け止め、器用に受け流すことができない彼女は、おそらく彼女の内側で
大きな発酵力と浄化作用を持つ「性」の最初のリアル体験での失敗も重なり徐々に死に追いこまれてしまった。
彼女が世から消えた場所が僕の生まれ故郷の近くだったことで思わず絶句してしまいました。
新聞記事ではわずか5行ほどで抹殺される彼女の存在。
野次馬根性的にさまざに下世話な憶測がなされる死の真相。(僕も憶測する一人だ、申し訳ない)
ネーミングまでして身近な友として向き合い語らった赤裸々なノート。
出版されるとは夢見だにしなかったがゆえに綴られた真実。
若くキュートな乙女の死と告白、という話題性ゆえに成り立った出版の功罪。
何でもネタにする節操なき商業主義への嫌悪と、逆にそれがなければ人目に触れることも
人が真摯に偲ぶことすらできなかった彼女の存在という矛盾。
今回の本題:『ええかっこの前に!最高の自分らしさを出そうよ!』
これら上記の一連の陰と陽は全て現実のことです。
何が言いたいかといえば、音楽も同じだと思うのです。
この情報過多の現代で音楽をやるとき、真剣であればあるほど、
彼女の苦悩と似た状態が絶対訪れてくるはず、自分めがけて。
音楽を楽しむ気持ちは様々です。どれも意味があることです。
ただ、「上手くなりたい」と思うのなら、細かく言って、
草野球レベル・県選抜・地方選抜・日本選抜レベルなど、
どのレベルを目指したいのかがあるはずです。
その差は、ええかっこでは絶対埋められない「質の差」です。
このシンプルな事実は絶対忘れちゃいけません。
少なくとも巷のライブハウスでよくみかける、衣装と髪型とMCはムッチャかっこええのに
歌い出したら、上手くもなければインパクトも味もないシンガーでええのか?ですね。
たぶんそんなシンガーはかっこつけることで手一杯、、いやええかっこシーなだけなのでしょうね。
きっとそれはアーティストではない。人に伝えるアートがない、自分を着飾っているだけでしょうね。
ん〜〜それではあかんやろ!ホンマに生きてると言えるのか?
死ぬというのが一大事なら、生きてることも同じく一大事だろ?
かっこええ生き方を漠然と捉え、さりげなくリア充ぶる輩が多そうだけど、
なんか、もう、人から見た自分がイケてるかどうかなんてどうでも良さそうだ。
ムッチャ評価軸が曖昧なものに自分の精神を捧げ、飼いならされてええのかですね。
でも皆さん、大丈夫。
『嘘・偽りのない歴然とした作品を作れば、それはリアルな証!ですよ。』
まずはカバーでもいい、最終的にオリジナル作品を作って発信しよう。
自分でできなければ誰かに手伝ってくれ〜と大声をあげよう。それも立派な行動です。
かっこええかどうか、誰々風か、流行りのトレンドかの判断は1/5以下で良いです。
すでにあるものを追い求めても、それはクリエイトではないでしょうし、
絵と同じで、絶対的に思想ある作品かどうかですよね。
生みの苦しみの最中でニヤッと一人で笑える自分でありたいね。
この記事を書いた人
ベリーメリーミュージックスクール京都校のチーフです。